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ふたつ 2009/12/30

二枚の靴下越しに、
冬が染み渡って来ます。

二枚のジャケット越しに、
陽射しで潤い、夜風で枯らされております。

二枚のスパッツ越しに、
2009年の熱は放散されてしまいます。

二枚のネックウォーマー越しに、
「ありがと」なんてモゴモゴ言います。

二枚目風の顔で、
「お世話になりました」
なんちて。

あと二日も経てば、
世界中の人々が、劇的に気持ちを新たにするのです。
或る人は、目標を持ち、
また或る人は、続けて来たものをやめる事に決める。

或る人は、良くなるように祈り、
また或る人は、悪くならなければよいと祈るのです。

ありがとう、全ての出来事。
ありがとう、出会い、言葉を交わした人達。
ありがとう、腐らずに共に歩んだ音色達。
ありがとう、愛情。
ありがとう、叱咤してくれたギター達。
ありがとう、なごみ、笑わせてくれたアイデア達。
ほんとに、ありがとう。
お世話になったね。

また、来年も、
あるがままいきましょ。


紅葉 2009/12/17

み〜んな、くたびれ果てていく。
俺に内緒で、枯れ果てていく。

今朝にはあんなにけたたましかった太陽も、
電車がレールを滑る希望に満ちた轟音も、
み〜んな、俺に内緒でくたびれ果てていくんだ。

二日酔いでもない、昨夜どころかここんとこ一滴も酒を喰らわなかったのに、
頭が痛い。
美味しいものをと思っても、ものを口に入れようとすれば、
胸がつかえる。
水が胃に沁み込んで行く度に、何とか一息、命をつないで、
み〜んな、くたびれ果てているんだ。

何かをしようと誓う度、
誰かに尽くそうと奮起する度、
「あれはどうだったか?」と思い出そうとする度、
み〜んな、くたびれ果ててしまうんだ。

ひとつの色、ふたつの色、
みっつ、よっつと色が増える度、
混ぜる色は次第に黒くなって行く。
物事は、
白という空虚から始まり、
黒という混沌に辿り着く。
七色の輝きは、それぞれが独立しているから美しいんだ。
混ざって綺麗なものはない。
玉虫色の決着は、矢張り物事をにごして諦めることなんだ。
シンプルじゃなきゃ。
何も見えないのは、
色んな色が混ざり過ぎて、真っ暗になっているからなんだよ。
み〜んな、くたびれ果ててね。

路上の風に巻き上げられたゴミとも枯れ葉ともつかない残骸よ、
み〜んな、くたびれ果てたのさ。

樹木が紅葉し落葉するのは、
冬の間、葉っぱに養分を吸い取られるのをふせぐ為だと聞いた。

あぁ、枯れ葉よ、落ち葉よ、
お前が知らず、こうしてくたびれ果てる前にさ、
お前の母体はとっくにくたびれ果てていたのさ。
結果なんて出るもう少し前からね、
俺に内緒で、
み〜んな、くたびれ果てていたんさ。


何だかとっても潤います 2009/12/15

何がどうして、どう良いんだか知りませんが、
最近は飲む水にこだわってみています。

まったく、何がどうして、どこに効くんだか知らないんですけど、
何となく健康的な気がしています。

僕にとって、"健康的!"という言葉を使える事が、
こんな事ぐらいしかないんです。

僕の場合、普段の生活においてもLIVEの時でも、
硬水はノドに引っ掛かるので、あまり好きじゃないんです。
軟水も軟水、超軟水が好きなんです。
最近は養命酒の仕込み水だとかいう極軟水を飲んでいます。
そしてちょくちょく薬局に出掛けて行っては、
良さそうな水がないか、眼を光らせています。
アルカリイオンが身体をどうにか健康的にすると聞きかじったので、
部屋には2リットルのアルカリイオン水が常備されています。
軟水とアルカリイオン水、これが僕の水に対するテーマです。

以前、ツアーで鹿児島に立ち寄った時、
『財宝』
という水に巡り会ったんです。
それは温泉水とかいうものらしく、
ノドごしがやわらかく、滑らかに体中を潤してくれた事に、
いたく感動しました。
何本かもらってツアーの共にしたのを覚えています。

あれ以来、感動する水には巡り会えていなかったんですが、
今日、いつもの薬局の、いつものコーナーで見つけました。

これも鹿児島の温泉水でした。
ただ『財宝』ではありません。
何でも垂水の温泉水だそうです。
ノドごしがやわらか〜で、潤いが胃の底まで溶け入ってくるんです。
しかもこれはアルカリイオンを含むようで、
僕が水に求めるものが揃った水なんです。

果たしてそれがどう体に健康的なんだか知りませんが、
何だかとっても満足です。
何だかとっても潤います。


理由がみあたらない 2009/12/12

飛び抜けて、何かできるような奴じゃないから、
飛び越さず、その目の前のものに精一杯足踏みするんだ。

飛び抜けて、沢山の人を惹き付けるような魅力のある奴じゃないから、
飛び越さず、目の前のひとりに尽くそうと思うんだ。

今までだって、何も飛び抜けたとこがなかったから、
俺は今こうして幸せでいられるんだろう。

今日精一杯になる事や、明日尽くすひとりの人、
毎日、毎時、毎分、毎秒、
沢山の物事が交錯している生活の中では、
その度に対称が変わっていくだろう。

だから、
唯一責任を持って大切にできるものは"今"でしかない。
過去の事を言われれば、覚えてる覚えてないの水掛け論。
未来の事を語れば、やるやらないの机上の空論。
確かにこうだと言えるものは今にしかないんだよ。
今、俺はこう思うからこうしているんだ、そこに理由なんて何もない。

俺の明日も飛び抜けないんだ。
飛び抜けず、ただ脈々と今をつなげている。


三千三羽 2009/12/11

全ての夜の、ほんの小さな空虚にも、
染み渡る真っ暗な悦び。
三千三羽のカラスを押しのけて、
おいらが唄う、
あぁ、夢よ、愛よとな。

ずしんっ、と響く雲の流れ、
せわしない雨粒の隙間に入って濡れないよう、
おいらが唄う、
あぁ、過去よ、未来よとな。

握りしめたくたくたのカレンダー、
そこに明日が来るとしてある。
酔い覚めの水、千両と来りゃ、
おいらが唄う、
あぁ、騒がしさよ、静けさよとな。

横っ面を冷やす青白い光、
誰かを笑わせた反面、誰かを泣かせるのだ。

おいらが唄う、
あぁ、親しみよ、ぬくもりよとな。


あんまり人に言うなよ 2009/12/10

あんまり人に言うなよ。
人に、自分の痛みや悲しみを話していると、
腹に持ちきるちからがなくなるんだよ。

あんまり人に言うなよ。
人に、自分の怒りや憤りを話していると、
ちょっとした事にも耐えられなくなっちまうんだよ。

何度も泣かなきゃいけないのは、持ちきれてない事の現れなんだよ。
何度も怒ってしまうのは、耐えられない事から逃げてるんだよ。

本当にそれでいいのかぃ?
本当にこのままでいいのかぃ?

あんまり人に言うなよ。
結局人生は、自分のしたいようにしかしないんだから。
あんまり人に言うなよ。
心底不幸な人なんていないんだから。
あんまり人に言うなよ。
他の誰でもない、大切な自分の事なんだろ。
あんまり人に言うなよ。
山登りはふもとより、頂上間近の方が苦しいんだよ。
あんまり人に言うなよ。
腹に収める事が出来たら、
苦痛は消えないけど、
きりかえるという事を手に入れるよ。
あんまり人に言うなよ。
きりかえれないまま、全てを悲しみのフィルタから見ないように。
あんまり人に言うなよ。
弱い人に見せたいように見えるから。

で、
あんまり人に言わないと、
今度は独りぼっちになるんだよ。
悲しみと弱みが見えない人に、
誰も興味持たなくなるよ。
いつも強く笑っている人の裏には、
悲しみや苦労を抱えていると思うから人は興味を持つんだよ。

君が何も言わなければ、
俺は君の笑顔の裏に、
何千、何万色もの複雑な悲しみがどういうものか知らない。
でも、
その笑顔の裏に、
何千、何万色もの複雑な想いがある事はしっかり見てるから。

自信を持って、揺るぎなく、
君はあんまり人に言うなよ。


紺色オンステージ 2009/12/06

随分、長い間のご無沙汰をしています。
今夜は、とっても静かな夜と思います。
これを読む人、ひとりひとりに手紙を書くつもりで、
この久し振りの慕夜記を書き上げようと思います。

つまり、この長い間のご無沙汰とは、
僕自身、今夜静かに雨の通り過ぎるのを待っていた月のような心境で、
僕自身の身に降り注ぐ忙しない雑音が過ぎ去るのを待っていたようなものです。

さて、こんな抽象的な言葉で君が理解できないのも重々承知です。
でも、このまま抽象的に僕の想いを書き綴る事とします。
それは、いずれ具体的な現象として君に見せる時が来ると思うからです。

ここ数年で僕の身の回りは随分ものが増え、
それに伴う想いも増えたものです。
そいつを片付けようともがいて来たつもりですが、
どうもそれは片付けるものではなく、
身の一部として付き合っていかなくてはいけないものだという事がわかりました。
僕はこれらの雑念達と共に生涯を送るもののようです。
そして、幾分その覚悟もついて来ました。

ここまで書くと、僕は重大な決意をしたように思われるかもしれませんが、
実はそんなに大した事じゃありません。
至っていつもの繰り言の一部を申し上げています。

何か変化があるかもしれない。
だけど、僕は君と離れ離れになる訳ではないし、
かと言って、表裏合わせた一対となっていく事でもありません。
あくまで平行線で、互いの道をつながっていくものだと思います。
僕は僕の荷物を引き摺って、君は君の荷物を背負い込んでそれぞれの道をいく。
その混じり合いそうもない道が、平行に辿る二つの道が、
どこか途方もない力で魅かれあっていく。
これを平たく言って愛情なんだと思います。

僕はそれを体現したくって、LIVEというステージに立つ。
僕はそれを体現する為に、今夜、この慕夜記にまた舞い戻って来た。

人生という時間軸に、後戻りという行き先はないものです。
どんなに怠惰に暮らし、無味無臭に息をひそめ、悔やみ、省みても、
それですら前に進んだ事になります。

僕は君の前から消える事はない。
もう知り合ってしまったのだから。
僕は常に紺色の夜のステージに立ち、
がらんとした幕が上がる度に、
こうして唄声を届けようとしているんです。
どうか、その想いだけは忘れないで欲しい。

ようこそ夜のステージへ。
ただいま、待たせたね。
ここからがメインイベント。
Yamagutty Showのはじまり、はじまり、

だよ。


優しくある為に 2009/09/27

怒りや悲しみ、
これらを発症すると、
まるで支配され、
そこからしかものが見えなくなる。
全てのものが怒りや悲しみでしか考えられなくなってしまう。

ものごととは自分で思うよりよっぽど楽観的で、
ものごとは自分の事なんか放ったらかしで、
坦々と日向に営まれている。

怒りや悲しみ、
これらを発症して支配されてはいけない。

僕が茫然自失している時、
僕がうすのろにヘラヘラしている時、
それは怒りや悲しみを発症しないよう、
懸命に抵抗をしている時なんだろう。

何故、そこまで怒らなければいけない?
何故、そこまで悲しまなければいけない?

怒る時、悲しむ時、
自分だけが必死だと思ってはならない。
思った時は、全く人が見えていない時だ。
自分の周りには沢山の人がいて、
日向を探して懸命に営んでいる事を、
自分が肝心な時に思い出すべきだろう。

私は人と共に生きている。


自由 2009/09/17

例えば、好きなテレビを見る時のように、
気楽に自分を愛してあげれないものかと思います。

100回同じ事を失敗しても、
ちゃんと1つの答えに辿り着くもんだと信じてあげてほしいと思います。

僕等は人のせいにしたり、恵まれない環境を嘆いたりしますが、
結局は自分という奴に押しつぶされているんだと思います。

全ての物事の中心には僕等がいて、
全ての物事を左右しているんだと思います。

自由というのは、そんな自分を許す事から見出せるような気がするんです。


性に秀でるもの 2009/09/09

女は感情に長けた生き物であり、
男は情に長けた生き物である。

俺は女より産み出されたもので、
その摂理に逆らうほど馬鹿じゃない。
だから、女という生き物に畏怖し、敬服して生きているものだけど、
だけど、

殊、情の広がりに於いては、
矢張り男の方が秀でている気がする。

こんな言い方をして、敵に回らない女性はいないだろうけど、
女の情は鋭利に集約されているような気がする。
それを感情と呼び、女はそれに長けた生き物だと感じる。
こんな言い方をして、語弊だらけだろうけど、
情の広がりに於いては、
矢張り男の方が秀でている気がする。

最近は女好き、ラテン系とあだ名される俺だけど、
最近はそんな情の広がりの中で生きている事に安心を覚える。

もとはさほどの女好きではないのでしょう。
至って淡白な男でしょう。

愛が好きよりも濃く深いものであるならば、
愛によって、淡白な俺も色味を深める事でしょう。

いつかそれに専念して生きる事があれば、

俺は広げた情を全て掻き集め、
集約した感情として女性に捧げよう。

君は絡まった感情を解きほぐし、
広げた情の原で俺を待ってて欲しい。

お互いの性をひっくり返したならば、
いつかそれが愛情になるんじゃないかと、
そんな風に願うもんだ。


四面、あっ、そっかぁ! 2009/09/08

正直である事、素直である事、一生懸命である事、
とっても大事な事を、大事にするするあまり盲目になり、
暗闇で戸惑う事がある。

正直である事、
正直であろうとし、ありのまま正直に思う事を話したら、
相手を深く傷つけてしまう事だってある。
自分の言葉が正直であったが為に、その傷は深い。
嘘を言わないまでも、黙っている事ができなかったかと思う。
卑怯者となじられてでも、その場を適当に取り繕おうとする事が誤りだとは思えない。
正直である事、
確かに非がない。
でも、正直である事にも躊躇しなければ、
正直であろうと願うほどに、人は迷う。

素直である事、
素直であろうとし、すべてを素直に受け入れていると、
雑用ばかり手元に舞い込み、なかなか本懐を遂げれない事だってある。
自分の行動が素直であったが為に、その無為な時間に気付くのが遅い。
騙さないまでも、もう少し計算して立ち回れなかったかと思う。
偽善者となじられてでも、本分を全うしようとする事が誤りだとは思えない。
素直である事、
確かに非がない。
でも、素直である事にも躊躇しなければ、
素直であろうと願うほどに、人は迷う。

一生懸命も然り。

正直である事、素直である事、一生懸命である事、
身体の充足感に騙されてはいけない。
今、自分の正直で素直な一生懸命さは、
誰にとって正直で、誰と素直に話し、誰の為に一生懸命か、
これらには優しさという余裕がなければ、
自分を窮屈な牢屋に追い込む事になる。

俺は、正直という独房に収監されていないか?
俺は、素直という独房で人の心を諦めていないか?
俺は、一生懸命という独房で全てに疲れ切っていないか?

真っ直ぐに生きるという言葉を、便利に使ってはいけないんだと思った。


ほぼ未定と言ってよし子 2009/09/06

一日を始める時、おおよその予定を頭に思い浮かべるけど、
それも予想の域を越えず、それを予定通りにこなせるなんて自信は微塵もない。
だから、ほぼ未定と言ってよし子。

時間の決まっている出来事や、一定に執り行なう仕事の時間も、
矢張りミクロの単位で、日々ズレを見込んで生きている。
予定通りに帰宅して、おおよそでも決められた付近の時間で眠りに就く事はない。
だから、ほぼ未定と言ってよし子。

今日の天気が良好、そして月がやけに明るい、
今日はこれだけの人数と顔を合わせ、どれだけかの言葉を交わす。
それらは全て未知な出来事だし、
いちいち驚きや発見、ときめきがある。
これらは予定されない。
だから、ほぼ未定と言ってよし子。

どんな潔癖な人間にも、図り切れない事がある。
犬のうんこを踏んでしまい、
どこかでは屁をひって、
鼻水を垂らしてしまう。
どんな潔癖に考えても、図り切れないのは自分自身である。
嘘をつき、騙し、
逃げ、見て見ぬ振りをし、
愚痴る、恨む、ねたむ、
あなどり、鼻で笑い、
我が、我こそがと話し、誇り、
一日として潔癖に生きれる事がない。

したがって、自分こそが潔癖だと信じる人は、
矛盾を抱えて生活しなければならない。
だから、そういう人は大概悩んでいる。
叩けば埃のある我が身と、
心のどこかで認めて行かなくては、
人に優しくいられない。
だから余計に悩む。
その悩みは予定外の出来事なんだから、
自分なんてものは、ほぼ未定と言ってよし子。

夕焼けに漂う安堵感は、
そんな予想外な一日を無事に乗り越して得られる感覚なのかもしれない。
何とか乗り切ったな、
朝はあんなに憂鬱に感じていた事も、
何だかんだで、過ごして来れた。
人は予定表の中で、一番確実にこなせるであろう出来事に辿り着く。

今日も何とか生きている。

こればかりは背負わされた大きな責務で、
人の予測を大きく狂わす最大の要因、
未定の根源なのかもしれない。


東西南北、夜奔朝走 2009/09/05

ご存知の人もちらほらとはいると思いますが、
俺は最近、バイクというおもちゃを手に入れまして、
朝な夕な、夜中であろうとも、
思い立つままに、
愛機にまたがり、
あちらこちらと、
その日の景色を探しに出ます。

とにかく削れるのは眠る時間しかないので、
ひたすら寝る間を惜しんで走り回りました。

夜中のレインボーブリッジで風に煽られ、
暗闇にそびえるガンダムを夢のように見上げ、
明け方の丸の内、日比谷公園から半蔵門へ、
海に湿った新木場のアスファルトを踏み、
冷たい田無の雨や、狛江のゆるやかな風を追い越して、
蒸発しそうな六本木から麻布の上品な排気ガスも沢山吸い込みました。

そのお陰もあって、東京という街を随分知りましたし、
また身近に感じれるようにもなりました。

バイクにまたがり、
ヘルメットのシールドにくもる自分の息から東京を見詰めていると、
俺は肩から力が抜けて、
何物にも代え難い自由を取り戻したような気分になるのです。
どこまでも走っていけるような過信を覚え、
何にでも出会えるような気にさせてくれるのです。

先日の夜中は川越に行きました。
俺が田舎を出て、初めて暮らした街です。
何か気持ちの整理をつけたくなって、自分の出発点を覗きに行きたくなるというのは、
どうやら、父親からの遺伝だそうです。

国道16号線に乗って、ロヂャースから川越インターの下をくぐったとこに、
俺が住んでいたマンションは、未だ何も変わらずありました。
その隣にはマクドナルド。
南大塚の駅前に、小さく栄えた商店街、
演歌のポスターが貼られたスーパーから、
中華の定食屋。
そして、チャーシューリキというラーメン屋。
相も変わらずあの頃の俺が住んでいるようでした。

よく物思いにふけっていた廃線になった錆びた線路も、
まだ、あの頃の重たい頭を下げて草むらにたたずんでありました。

いかにも変わらないあの頃の想いを、
ほんの少しだけ垣間みれたような気がしました。

俺は帰り道、尿意を催し、
あの当時バイトをしていたゲーセンに立ち寄りました。
ここだけは随分と最先端なゲーム機に囲まれ、
うるさいほど様変わりしていました。
「ほぉぅ、随分と変わったものだなぁ」
と思って、トイレに行くと、
トイレ清掃を終えたバイトの男の子が出て来ました。

その男の子が、
「ごゆっくり、どうぞ」
と向けた笑顔に、
俺は矢っ張り変わらないで息づく自分の正直さを、
見つけれたような気がしたのでした。


手を振る秋 2009/09/04

とても久し振りの慕夜記なので、
みなさんにはご無沙汰して申し訳ない気持ちで一杯ですが、
ここでこの通りパソコンに向かってブツクサできるほど、
俺は元気な生活を滞りなく執り行なっております。

ここ2ヶ月ほどになりましょうか、
俺は俺を野方図に放し飼いをしてやりたくて、
俺と云う小さな野原に放牧し、好き勝手にそこいら中の雑草を食べさせていました。

結果は推して知るべし、

この通り数年掛かって育てた雑草も、あっと言う間に食べ尽くし、
慣れ親しんだ草の味にも飽いて、
この俺の野原から旅立とうとする前夜、
といった時期に差し掛かって来ました。

9月1日、あのステージ上で言い放った通りに、
俺が変わっていこうとしています。

俺がそう思う途端に、身の回りでも不思議なくらい変化が多くなる。
身の回りの人達が、そして使い慣れて来た愛用の物達までもが、
ガラガラ大きな音を立てて変わっていこうとしています。
それはとても不思議な偶然です。

俺の世の中にある全てが、
今、何か確かな根拠を見つけて、
古いものは朽ち、
朽ちたものは肥やしになろうとし、
肥やしでいたものは新しい種を探し始める。
大きな音とは、それらが渇望して立てる悲痛な叫びにも聞こえます。

そして俺は、驚くほど平静な気持ちで、
それらに手を振ります。

それは、
「おいで、おいで」と振ったり、
「元気でね、ばいばい」と振ったり。

物事に時節、時期、タイミングというものがあるならば、
俺にとってそれは今なんだと直感しています。

行き先の吉凶はわかりません。
ただ、吉を起こすにしても、凶に出くわすにしても、
出掛けるなら今だと直感していると、
そういいう秋なんです。


進化論 2009/06/08

一匹の蜘蛛が、
縦糸に美しい編み目を紡いで巣を張っている。

何もなかった天井とカーテンレールの空虚な隙間に、
一時間ほどで螺旋の模様を描いている。
何と底知れぬ、創造の主よ、
私の小さな妄想などは足元にも及ばない。
私の怠惰な一時間などとは比べようがない。

彼の造形美は全て生きる為の必然のみで出来ている。
私などが生活の端くれで思い当たるような無駄話とは、
自ずと輝きが違うのだ。

蜘蛛が描く美は、私の描くような嗜好品ではない。
食べる為の道具なのだから。
まるでただの現実、至って合理的な模様なのだ。
だけど、それがえも言われず美しい。
私の現実、至って合理的な活動に、
果たして蜘蛛ほどの美が描けるだろうか。
甚だ疑問である。

私が生きる為に唄い、
私の現実、至って合理的な出来事だけを、
一切の無駄を省き、シンプルな唄にして伝えようとした時、
一体、どれほどの説得力がある芸術になるんだろう。
私は何を描こうとすれば、
蜘蛛の巣のような深遠な意義を持つだろうか。

そもそも蜘蛛の巣は、蜘蛛の生涯である。
私は私の人生を、
私の為に描けばよいか、
誰かの為に描くべきか、
結論のあろう筈がない。
私が生きる意味や意義は、
生まれる何億年前からなかったのだ。
生まれて、今ここに存在している事に、
塵や芥ほどの尊厳もない。
ただ、生物の歴史の一環として、
進化と退化の歯車をほんの少し押すだけの事に過ぎないのだ。

一体、夢とは何かと考える。
一体、愛情とは何かと考える。
一体、友情とは何かと考える。
一体、自尊心とは何に根拠を持てばよいのか考える。

そして、考えれば考えるほど、
蜘蛛の巣に引っ掛かったように、
尚更身動きが取れなくなっていく。

今夜は結論のない事を考える。
そして、
この先もずっと、こうして結論のない事を営んでいかなくてはいけないのだ。


消費活動 2009/06/03

この世に永遠のない事は、
あの雄大な夕陽を見ればわかる。
あんなに毎日の事も、
限りある時間とエネルギーを消費して成り立っているんだから。
いずれ誰もが滅びる。
まして、俺は、
まして、小ちゃな俺は、
言うまでもない。

この世に永遠のない事は、
あの空の上にあぐらをかいている神様を見ればわかる。
あんなに確かな愛情も、
限りある時間と感情を消費して成り立っているんだから。
いずれ誰もが滅びる。
まして、俺は、
まして、俺が持ち合わせた小ちゃな愛情などは、
言うまでもない。

一晩で滅びる月下美人の花も、
何億光年を経て滅びる星も、
同じ数の事しかできないし、
同じだけの愛情を持つ。
まるで、俺と蟻んこの一生が平等にしか働けないのと同じように。

うまく言えないのは、
そこに生きる勇気を見出すし、喜びと凛々しさを感じるという事だ。
限りある、いずれ滅びる、
からこそ、
それを大切に燃やしている。
人がそれぞれで燃やし、
人がそれぞれで消費して、
時間と愛情、感情の貯蓄を切り崩している。
歩んだ道のりは、ただ風化の一途を辿る。
これもまた限りのある事だ。

俺は今日も、
宇宙の中の、
銀河系の端っこに沸いた、
太陽系というサイクルの、
一段と小さな地球が、
いずれ滅びるまでの、
ほんの瞬きのような歯車に、
俺という甚大な一生を掛けてなろうと頑張った。

それが何の訳だか、
唄になっているんだな。

さっぱり、
わかるめぇ。


腑抜けた考察 2009/05/27

今日はどうでもいい事ばかり考えて、
あるべき時間が通り過ぎるのを楽しんでいました。
さしずめ、腑抜けと言っておつりがない感じ。

例えば、
何も知らない他人同志の男女を取っ捕まえて、
週一のペースで、
男には女の子にラブレターを書かせ、
女の子にはそれをフッてもらう。
勿論、他人同志の男女だから、全て形だけ。
形だけののラブレターに、
形だけフッてもらう。
その形だけを続けた時、
その他人同士の男女は、どこかで恋心を抱くんじゃないか?
そうなるのだったら、一体、男女どちらが先に本気になるんだろうか?
僕はそんな事を考えていました。

まったく、腑抜けと言って損傷ない感じの考察です。

僕はきっと、
その男女は恋に落ちると思うんです。
それは思ったよりも早く。
そして、この場合、男が先に本気になるでしょう。
その男の本気が女心を動かし得るんではないか、と思います。

結局、どうでもいい腑抜けの理論ですが。

が、しかしですね、
逆にしたら恋に落ちないと思うんですよ。
つまり、
何も知らない他人同士の男女を取っ捕まえて、
女の子にはラブレターを書いてもらい、
男にはそれをフッてもらう。
この場合は、女の子が本気になりにくい気がしますね。
理由はないです、何となくの勘でそう思います。
女の子は形上でラブレターを書き続けてしまう気がするんです。
男ほど単純な恋の落ち方はしないと言うか、
…そんな気がします。

いよいよ、腑抜けに磨きがかかった、どうでもいい考察です。

これをメールのやり取りにしたら、
また面白いでしょう。
互いに相手を見れないまま、形だけのやり取りを続けたら、
矢張り、恋に落ちるんじゃないでしょうか。
いや、むしろもっと確実に恋に落ちる気がします。

あぁ、こんな事を考えて、腑抜けに一日を過ごしてしまった。

こんな腑抜けな考察ですが、
「私はこう思う」なんて人や、
「その実験に、是非アタシ(僕)を参加させて下さい」という人があれば、
どうぞご一報下さい。

腑抜けが、お待ちしております。


Keep on singing,The songs bless you!! 2009/05/25

5月21日。
みんなが帰ったグラフィティの客席に独りっきりになって、
すっかり片付いて明日の準備をしているステージを眺めていました。
ずいぶんと寂しい気分です。
さっきまでにぎわっていたホールもステージも、
もう嘘みたいに静かで、誰もいなくて。
さっきまで俺もあんなに誇らし気に立っていたのに、
もう嘘みたいに人恋しく寂しくなってる。
この切り替わりが、つまり、いいイベントだったっていう証でしょう。
このギャップが、つまり、今夜のイベントが良かったという証に感じたんです。

当日は、平日にも関わらずみなさんが足を運んでくれたお陰で、
本当にいいイベントになったと思います。
感謝しています、有り難う。

そして、一緒にイベントを作ってくれたアーティスト、
松本千恵君、Rough Clover、小嶋とおるBAND、
本当にヘソの奥を分かち合える奴等で、
感謝してます、有り難う。

つまり、この『The Songs Bless You』
「唄の祝福が君に降りて来ますように」と願いを込めたイベントタイトルです。
ステージに向ける想いは、見る人も、演奏する人も、各々で、
日常生活にちょっとした引っかき傷を残すものと思います。
僕は21日からこのかた、結構な抜け殻で、
気持ちがどこに行くともなく、ずっと僕の真ん中に引きこもっています。
つまり、僕には、
今あるこのあたたかい違和感が、唄の祝福なんだと思います。
ずっと静かな気持ちです。

このイベントは、この次も、その次も、
常に同じ目標に向かってやり続けていかなくちゃいけないなと思っています。

またその時まで、このあたたかい違和感を忘れずに、
気の向くままに、愛し続けましょう
「The Songs Bless You」
唄の祝福がいつも君にあらん事を。


一鬼独焦/鬼面独唱 2009/05/16

どうにも、21日のイベント『The Songs Bless You』まで、
あと一週間を切った訳でして、
焦る気持ち、落ち着かない気持ち、
これではアカンなぁとか、
どうしたらエエっかなぁとか、
ない交ぜにして、明け方まで近所迷惑に練習の鬼と化しています。
ずっと練習の鬼と化していますから、
結構険しい顔しています。
優しい顔も心地良いけど、
こうして鬼面に一層にがみばしってるのも、
まぁ、悪くない。
後の笑顔があると願えばこそであります。
楽しみにしていて下さい。

いかにも忙しそうに、わさわさしていると、
そのわさわさ過ぎていく時間や人の気持ちに不安を覚えたりします。
こんなさばさばしていてよかったかなぁと。
もう少しじっくり尽くすものではなかったかなぁと。
結構不安なのですが、
心配し出したらキリがないので、
先へ進む事と決めています。

いかにも忙しそうに、はきはきしていると、
そのはきはきしている時間や人の気持ちの行き先に不安を覚えたりします。
こんなにさばさばしていたらすぐに自滅してしまわないかなぁと。
もう少しじっくり作り育てていくものではなかったかなぁと。
結構不安なのですが、
心配し出したらキリがないので、
まず眠る事と決めています。

今と同じような気分になって、
以前、旅に出た事があります。
その旅先で、すれ違う人や流れていく景色、
ひとつひとつ足を止めていたら帰って来れないから、
ひたすら無心に歩き続けました。
今は、
まずその時の心持ちを思い出すように決めています。

踊れよ、誰も見てないかのように、
唄えよ、誰も聞いてないかのように、
イキなよ 今日が最後の日だと思って、
ライブしなよ、失うものはもう何もないかのように。


The Songs Bless You 2009/05/14

最近ね、昔の自分のライブのビデオとかPVを見ますよ。
別に理由がある訳じゃないんですけどね、
しまってあるラベルの無いビデオを見つけて、
「何じゃこりゃ?」
と見ると、10年くらい前のライブのビデオだったりして、
「うぉっ!これは痛々しくて見てられねぇや」
と慌てて消すの繰り返しです。
自分一人でこっそり見ても恥ずかしくて3秒と見てられないような事になります。
それを堂々と『唄いたいんだー!』としてやって来たんだから、
複雑な気持ちになりますね。
自分ってのはいつまで経っても、そんな存在なんでしょうかね。

とは言え、デビューしてから6年目。
おめでとうございます。
そして、有り難うございます。
これは素直に自分に言ってあげたいですね。
毎年思いますが、
これは自動的にやって来る誕生日とは違って、
自分が能動的に作り出した記念日なので、
この日だけは、お祝いしてやりたいなぁなんて思います。
まぁ、今夜もポッツーンと独りぼっちの音が部屋になってますが。

唄い始めて10年を越して、懐かしいなと思える話も出て来ました。
ギターを背負って、カバンに一杯のデモテープを入れて、
一万円もした音楽事務所年鑑の本を持って、
テクテク、ノコノコしてたなぁ、とか、
年末の有楽町線に乗って、忘年会の酔っ払いからギターを守りながら、
ラジオの収録から帰って来たりしてたなぁ、とか。
思い出すと、ようくやってたなぁと微笑みますが、
その当時、その当時の僕は、ひたすら苦しくて仕方ないと思っていたなぁ。
正直なところを言うと、東京に出て来てから10年くらいになりますが、
つい3年くらい前までは、唄う事がつらくて仕方ない状態だったと思います。

何で唄ってたんだろうって思うくらい、つらかったです。
だからこそ、反面に『つらいけど唄わなくちゃ』という意識が過剰になって、
必死、必死。
そんな頃の自分の想いだけにガンジガラメで必死な姿を、
今、ビデオで見たら、
そりゃ、こっぱずかしいもんですよね。
本当に、何でそんなに唄わなくちゃいけないと思ってたんだろう。

矢っ張り、好きだったんですね。
自分でもおぼろげな部分ですが、その一言じゃないと解き得ないと思います。
好きだったんですよ、唄が。
だから、毎日、つらいなぁと思っても、
唄いに出掛けていたんですよね。

今は、唄をつらいとは思いません。
今、実感して、楽しいから唄っていて、好きだから唄い続けていると言えます。
何年後かに、またこんな思い込みだらけの自分を、
こっぱずかしいと思う時が来るのかもしれませんが、
今は言います。
いっぱい言います。
好きです。
唄う事が。

21日には『The Songs Bless You』
あと一週間。
差し迫ったものなどに追われながらの毎日ですが、
このイベントタイトル、
必ず唄が僕等を祝福してくれます。
辛い毎日、
なかなか思うように運ばない事、
届きそうで届かない人に対する想い、
将来への不安、
喜びも後悔も、
僕等の心に起きる正直な感情の動きを全部、
唄が祝福してくれるに違いありません。
だから、
みんな、忙しいだろうけど、頑張って!
俺も頑張ろう。
一生懸命やってれば、21日に全てが祝福される筈です。

『The Songs Bless You』
全ての頑張りに、祝福あれ!


突破せよ 2009/05/06

何だかんだで長く続いているレコーディングですが、
そろそろ終わりが見えて来たようです。

先日はスタジオにこもり、ギターとマイクに囲まれ、
50cm四方の唄のスペースに潜って、
兎に角、唄い続けました。

何度も、何度も、同じ唄の同じフレーズを唄って、
徐々に、徐々に、スタミナや喉を消耗していくのですが、
不思議と『もう一回唄ったらよくなるんじゃないか』という欲が沸いて、
その消耗を続けたくなります。

それって『良くなる』結果に向かっているかどうかは不確かで、
悪くなっていく事だって多いんです。
半分の意地と半分の責任感を持ってマイクには向かうんです。

ブースの外には吉川みきさんがいて、
僕のそんな意地やエゴをも静かに聞き耳を立てて、
唄の行方を見守ってくれます。
ここに僕の想いは感謝にたえず、必死に唄う以外に言える事など知らないのです。
僕は本当に心強く有ります。

あと、もう一つささやかな心強さがありました。
唄に対して、少し気持ちが折れかけた時、
下の写真にある通り、歌詞カードを入れていったクリアファイルの文字を読み、
今年のWBCを思い出し、何となく勇気を持っていました。

新しいCDについてですが、
5月21日のイベント『The Songs Bless You』では、
みなさんに良いお知らせができると思います。
楽しみにしていて下さい。






お茶にする 2009/05/05

色々と間近に迫ったものが増えて来た。
何か手をつけようとして、
何から手にしようかという思案でスッカリ集中力を失ってしまったりする。
まずは、お茶から手をつけよう。

色々と間近に迫ったものが増えて来ると、
僕は始終独りで居たくなる。
独りでいられる場所を探そうとしてスッカリ想像力を乏しくしてしまったりする。
まずは、お茶からすすってみよう。

春だ、夏だ、秋だ、冬だ、
色々と間近に迫ったものが増える度、
僕は所在なく我を失った。
今度はゆったり腹を据えていたいのさ。
そんな覚悟を決めようとして、矢張り落ち着きのなさを露呈してしまったりする。
まず、まずだ。
まずは、お茶から始めよう。

ストレスなんてものは三年前の用水路に流してしまったし、
鬱蒼とした沼地に沈んだ精神も、
二年前の黄昏から拾い上げて来た。
もう、僕の根本は気楽なものである。
喜びを無言に噛み締め、興奮をあくびに引き伸ばす。
苦しみを高笑い、哀しみを怒りに変える。
近いうち必ずやひっくり返してみせる。
近いうち僕の時間を奪い返してやる。
何はともあれ。

まず、まずだ。
まずは、お茶に濁しておこう。


春眠の暁に思い出せず仕舞い 2009/05/01

春眠、暁を覚えず。
暁どころか、何も覚えてない。
さて、いつ眠ったかぁ…。

あっ、そう言えば、
蜘蛛が一匹、我が家の壁を這っていたのは、覚えています。

あっ、そう言えば、
そいつを外へ逃がしてやろうとティッシュを一枚手にしたのを覚えてます。

あっ、そう言えば、
なかなかすばしっこくて、捕まえようとしてもヒョイヒョイ逃げられたのを覚えてます。

あっ、そう言えば、
「自由な世界に逃がしてやろうとしてんのにっ、えいっ!」
っと、蜘蛛をパシッと捕まえたら、思いのほか力が入ってしまったのを覚えてます。

あっ、そう言えば、
ティッシュの中を恐る恐る見てから、無駄な殺生を悔いたのを覚えてます。

あっ、そう言えば、
何だかやり切れなくて、布団に寝っ転がったのを覚えてます。

あっ、そう言えば、
物の大小が、とっても馬鹿馬鹿しくなったのを覚えてます。

あっ、そう言えば、
ぐっと唇を噛み締めていたのを覚えています。

あっ、そう言えば、
そのまま眠ってしまったのかもしれません。

あっ、そう言えば、
総入れ歯になる夢を見た様な気がします。
お後がよろしくない。

何かを思い出せたようで、
果たしてさほど重要な出来事だったかな。
今日も一日、みんなはけっぱってくれろ。
俺はいつものギター背負って唄っ子倶楽部。
いいちこと煙草のにおい、ゆっくりしていけよ。
何か重要な出来事を思い出せそうさ。


自然なイレギュラー 2009/04/11

昨夜は、Big Mouthで大いに呑んだ。
あんまり呑まずに素直にお家に帰るつもりでいたんだけど、
毎月の例に習い、帰る事を終電間際に放棄してしまった。

まず、タケちゃんと話し出し、
田井さん加わってサッちゃんと際どい話を繰り広げ、
ダイスケが「ショウ、帰んな!」と言った割には、
テメーだけ終電にイソイソ退散し、
そのまま話していると、
ダイスケが終電逃して戻って来て、
何故かユウイチ君を連れて来ていて、
寝そうなカオリちゃんにみんなでチョッカイを掛け、
ギターを弾き、
誰ともなく唄っていた。
また俺は、心おきなく酔ったんだなぁ。

みんな、しょっちゅう会うような友達ではないけど、
フラッと何かのはずみで出会った時には、
すぐにヘソの奥を弛めて話す事ができる。
そんな友達に「やぁ、久し振りっ!」って挨拶するのが、
何だか気恥ずかしく感じるのは俺だけだろうか。
上手く表情とかには出てないんだろうけど、
俺は即座にはしゃぎたくなってるんだけどなぁ。

時計は止まって、際限なく悪フザケをやらかす。
けど、
やがて、朝は来る。

ユウイチ君は久し振りに田井さんのモノマネをしながら飄々と帰っていく。
ダイスケは床にぶっ倒れて、半ケツ出して眠り、呼んでも起きない。
タケちゃんは片付けを済ませ、
カウンターに注ぐ朝陽とカフェオレで短いプライベートを楽しむ。
ウッシーとイッサ君が夜を飛ばして仙台巡業から戻って来る。
が、またすぐに家に戻っていく。
俺は家路に着く。

変な言い方かもしれないけど、
ミュージシャンだなぁって実感する唯一のひとときだ。

こんなワサワサ、バタバタ、ワイワイできるのは、
みんながそれぞれのスタイルで音楽と向き合っているからなんだろうな。

朝モヤの中、みんながそれぞれのスタイルに帰っていき、
俺も、動き出した時計と共に俺のスタイルへと帰っていく。
シンデレラみたいなもんかな。
ガラスの靴は持ってないけど、ガラスのギターは背負ってるぞ。


『だねぇ〜』というゆとり 2009/04/06

オタナ(御店)の旦那が仕事の息抜きに縁側に出て、
キセルをくゆらせ、庭の植木を眺める。
「ふぃ〜、春だねぇ〜」
と小声を漏らした、その『だねぇ〜』

「いや〜、今年の桜はやけに紅いもんだねぇ〜」
と感慨をぬかす、その『だねぇ〜』

この『だねぇ〜』というゆとりを、今日一日に取り入れてみた。

「今日はいい陽気だねぇ〜」
「すっかり仕事の事なんか忘れちまうねぇ〜」
「お腹がペッコペコだねぇ〜」
「今日はばかに忙しいねぇ〜」
「カツカツだねぇ〜」
「トントンだねぇ〜」
「キリキリだねぇ〜」
「都会の暮らしは底なしだねぇ〜」
「目も当てられないねぇ〜」

このオタナの旦那口調で話していると、
どんな困難も特大のゆとりを持って乗り越せる気がした。

自分が勝手に焦っていても、
物事って、存外ゆっくり流れている。

流れているもんだねぇ〜。


シャクジイガワ 2009/04/04

3月3日の女の子の節句と、
5月5日の男の子の節句に挟まれた、
4月4日、この日を…、
君なら何の節句と言うかな?
その何らかの節句に当てはまる人にお祝い申し上げます。

今日ら、桜満開のド真ん中、お花見日和じゃないでしょうか。
ここのところの昼間は陽射しが優しく、
ホッカホカな暖かさを感じるようになりました。

「シャクジイガワ」
と書くと、しゃっくりの止まらない爺さんの皺、
みたいな感じに見えますが、
僕の家の近くに、石神井川という川があります。
まぁ、川と言うよりも、
大きめの用水路と言った方がしっくりくるような川です。

この石神井川に、僕は何度も何度も寄り添って歩く事がありました。
かと言って、生活の動線には重ならない道ですので、
最近は全然来てなかったのですが、
久し振りに石神井川流域を歩きました。

と言いますのも、ここは川岸にたわわな桜並木がずっと続いていて、
花見で言うと隠れた名所なのです。
勿論、普通の道路ですから、そこで酒飲んでドンチャン騒ぐ様な事はできません。
ゆっくりゆっくり、ただ桜のパノラマを眺めながら散歩する、
流域住民の風流な楽しみとなっている場所です。

僕は、何か仕事の事を考えたり、歌詞を練ったり、息抜きをしたり、
ジョギングで汗を流しに、ここを通りました。
この川というよりも大きめの用水路である石神井川に、
何度も考えを浮かべては、確信を持ったり、ヒントをすくい上げたりしました。
僕は夜にここに来る事が多かったので、
僕が見る石神井川はいつも黒かったです。
つまり僕にとって黒い川とは石神井川です。
そして、深い川です。
実際は膝の高さにも及ばないくらいの浅い川ですが、
僕の深い川です。

 『僕は裸だって言い続けて来たけれど、
あり余るほど何かに引き摺られてんだい。
嘘や、口実だけの、僕なりの味さ。

  君の荷物は、そりゃ君だけのもので、
僕の荷物も、僕だけが引き摺ってんだい。
ずっと平行線で、重なっていく。

  黒い川のオスとメスで、
魚はあっちこっちに生まれる。
ただ、愛の為に。

  だから、君だけに、
一番弱い僕の姿を手料理にして、
君のお腹の中に逃げ込ませて。』

こんなフレーズをひねり出させてくれたのは石神井川でした。

今日はとてもおだやかに、桃色の春で僕を向かえてくれますが、
時として厳しく、また冷酷に僕を受け入れてくれるのも、
ここ石神井川なのです。


本人達(僕を含む) 2009/04/03

今日は久し振りの友人が来る。ウチに来る。
高校からの友達だ。
ってんで、チリヂリに散らかった部屋を掃除してみた。
結構な汚さだったけど、存外手こずらなかった。

エアコンのフィルターを掃除したら、
ここには意外なほど埃が覆っていた。
完全に掃除すると、鼻詰まりが取れた様に空気の通りがよくなった。
いつも強で部屋を暖めるところ、弱で間に合った。
「俺の今までの電気代って…」
とは考えないようにした。

矢張り、部屋が綺麗だと気持ちの通りも良い。
偏った部屋では、矢張り物の見方も偏る。
均等にしてみると、見た目のストレスが随分減る事に気付かされる。
部屋の乱れって、矢っ張り細かいストレスを自分に与えていたんだなと思う。

そんなこんなで夜は高校の同級生三人で呑んだ。
と言っても酒を呑んでいたのは俺だけ、あと二人は下戸。
久し振りに会っても、久し振りに会っている実感はない。
近況やら仕事やら、男やら女やら、故郷やら、
話は四方八方に盛り上がり、尽きる事がない。
あの頃とまったく変わらない気がする。
いつもキャッキャとやっている気がする。
実際、キャキャとなる。

ただ、あの頃とは違って、オヤジというものに対しての意識が高くなった。
父親というオヤジではなく、所謂ひとつのオヤジと揶揄される言葉。
オヤジとそうでない人の境目にいるのは確かなんだろうけど、
本人達は(僕も含め)実感していない。
どこをどうするとオヤジに属するか、随分論議に花が咲いたけど、
きっとこうするとオヤジになるんだろうな…、
オレは大丈夫だろう…、
…なんて言いながら、
結構、本人達(僕を含め)は自分がオヤジと呼べるんじゃないかと気にしているのが、
イヂらしい年頃だと思う。

そんな事をワイワイしながら、今でも夜を明かせる。
不思議な仲だけど、根強く堅い仲だ。
いつまでも、いつまでも、こんな本人達(僕を含む)でいたいと、
切に願っている。


東京と今日 2009/04/02

4月2日という一日は結構クッタクタに疲れてしまった。
まっすぐ帰る俺、酒も何も誘惑なんてなく、
ただただまっすぐにお家に帰るつもりでいたのに、
俺の地下鉄、俺専用地下鉄は、どこかの酔っ払いさんが線路に飛び込んで、
動かない事になっていた。

地下鉄のホームに足を向けようとすると、
やけに大勢がホームから戻って来るので、
「動いてますか?」
と聞くと、
「矢っ張り動いてません」
と返って来た。
そして、俺はまっすぐには帰れず、
大きく蛇行して家路を辿らなくてはならなくなった。
俺は、30分で帰れる道筋を、
何だかんだの乗り換えで10分ずつの待ち時間を費やし、
結局1時間半くらい掛かって家に着いた。
都会で暮らすと、突然舞い込む必要不可欠な時間が多い。
まったく奇妙な時間ではある。

俺と同じように違う路線に向かうゾロゾロした人の波に混じりながら、
大勢を動かしている都会の秒針は、
紙一重で回っているんだなと感じた。
人気店に並ぶ行列も、
主要な道路の渋滞も、
結局一人の些細なイレギュラーが発端に発生している。

人、ひとりのイレギュラーは当たり前に起きる。
例えば、帰り道に転んじゃったとか、
帰り道に美味しそうなパン屋が開店したとか、
花が咲いたとか、鳥が啼いたとか。
そんなものは人の潤いになっていく筈なのに、
都会では、それを起こして人に迷惑を掛けちゃいけないという緊張感を、
誰もが抱えて生きている様な気がする。
こんな窮屈を心の隅に抱えて、仕事をして、学校に通って…、
病気にならない方がどうかしている気がした。
結局、みんな、
紙一重で人々が奇妙な時間を費やしている。

俺は都会の夜景を綺麗だと思った事がない。
以前、都庁の展望台に登って東京の夜景を見渡したけど、
ただ窮屈な人の暮らしを見せつけられている様な気がして不愉快だった。
無数にあるビルの中の、小さく灯る光のひとつひとつに人が何人も仕事をして、
動く電車の小さな窓の光の中には、ギュウギュウに詰め込まれた人達が、
疲れ切ってストレスを抑えている。
それはまさに紙一重を保とうとしている緊張感で、
そいつを見て、
「綺麗だね」
とは、思いも寄らない言葉だった。

そんな紙一重の緊張感を抱えて、俺も東京暮らしが10年になる。

まだ、目立った病気は抱えていない。


久し振りに慕夜くので…嘘をつきます 2009/04/01

そう、ずいぶん久し振りに慕夜くので、
調度いいから、嘘を書きます。

見上げた曇天のみぞおちから、
ドンガラ、ドンガラと派手な雷鳴が轟いたので、
僕は何だか腹が減ったのです。
嘘。

めっきり春めいた神社の桜のもとに、
初々しいスーツ姿の子を眺め、
白と言うべきか、ピンクと言うべきか、
僕は考えていたのです。
嘘。

2年振りくらいに苺が我が食卓にやってきて、
コンデンスミルクをたっぷりかけると、
白と言うべきか、ピンクと言うべきか、
僕は悩んでしまったのです。
嘘。

スーツ姿の子にしても、コンデンスミルクをかけられた苺にしても、
甘酸っぱいという点では、とっても似ていて、
どちらにも白い純朴さがあり、
どちらにもピンク色に紅潮した緊張感があるなと、
僕は合点がいったのです。
嘘。

自由に嘘をついていいよと言われた一日には、
よほど気の利いた嘘が言えなくちゃいけないとハードルが上がり、
返って尻込みして、嘘をつけずに終わるものです。
嘘。

嘘の反対は「そう」
そうだと信じるものをひっくり返してみれば、
案外、小洒落た嘘になようです。
逆に、
嘘だと諦めかけた事も、
ひっくり返してみれば、
案外辛抱強く、そうだと信じれるものになるものです。
嘘。

馬鹿です。
嘘。

いい男です。
嘘。

これは優しさです。
嘘。

本当です。
嘘。

何はともあれ、
新しい時代を一歩作り出した、
曇りのち晴れ、少しかじかんだスタート日です。

嘘。
…かなぁ。


どうこからどう見ても「だらけ」の人 2009/02/10

誰もがいつも通る道。
誰という事なく、ひっきりなしに往来があるこの道に、
時々、すっかり方角を失って生きている時がある。
まったくいつも通りの事をしていても、
まったくいつも通りにいかないなんて、
よくある話なのだが。

誰もがいつも通る、みんなの道に、
誰という事なく、特別な誰かを探し、
時々、すっかり方角を失っているんだ。
結局、行き交う人、誰も彼もが特別な人に思えてならない。

北へ南へ、東へ西へ、
一見、身を粉にしているようで、
矢張り、身を虚にしている。
昇りのスパイラルにいるのか、
下りのスパイラルにいるのか、
兎に角、いつもの道をグルグル往復している。

こんな時は、下手な感傷をやめている。
ただ流れに飲み込まれて、
ささいな自己主張でさへ、
いちいち我慢している時間も必要なんだ。

河の流れに逆らった石はただ浸食を受けて自分を失うだけだ。
河の流れに沿って転がる石は、身を均等に丸くして大河へ向かう。
球体のバランスは、どこをとっても支点になり、作用点になり、重心になる。

今は、自分にも人にも、
感傷的になって足を止めるような時間じゃない。
何の意志も意義も持たず、ただ転がる事に専念しなければならない。
それで人を不快にしようとも、呆れられようとも、
一心に転がり、専念しなければいけない。

俺は、
どこからどう押されても、すぐにコロコロ転がる作用点だらけの人になりたいし、
どこをどれだけ転がっても、いずれ静止した時にはまっすぐ立つ、
重心だらけの人になりたい。

それには、まだまだ世の中と擦れ合い、程よく摩耗しなければいけない。
矢張り今は、
惜しむ事なく、身を削らなくてはならない、
そういう時か。

今日が昨日になる頃、
いつもの通りで一歩一歩を着実に踏みしめる。
明日の光へ身体を染めつつある俺の背後で、
響く足音が、確かな昨日として刻まれている事に、
ちょとだけ安堵した。


白く黒ずんだ人 2009/02/05

人が「白」という答えを口にした時、
そこに、おろしたてのYシャツのような一面の清潔さはない。
そんなノウテンキではなく、そんな空しくはない。

人が「白」という答えを口にするには、
長時間を掛けて、混濁した灰色のシミを抜く作業をしなくてはならない。
それは労力を伴い、時として苦痛も伴う。
「白」の反面で、どこか薄汚く、
「白」の反面で、どこからともなく臭い、
「白」の反面で、どこかしらやぶれている。

人が「白」という答えを口にしていても、
それはその人の、ほんの一点であり、ほんの一瞬に過ぎない。
それはまるで海底火山から突き出した孤島のように、
海面下には深く太い要素をたたえている。

そのほんの一点、ほんの一瞬の「白」にみなぎる、
灰色の悩み、灰色の戸惑いこそ、
その人の本音であり、
その人の個性であると思う。

人が「白」という答えを口にする時、
それはみなぎる灰色のエネルギーが沸き立ち、
海面上に「白」を噴火させている時なんだ。

だからその「白」という答え一点には、
揺るぎなさ、誇り高さ、自尊に満ちあふれ、
聞く人を安らかにさせる。

そういうものだからこそ、
人に容易く「白」「黒」という答えを求めるのは愚と感じる。
人を容易く「白い人」「黒い人」と決めつけるのも愚と感じる。
人が容易く自分を「白」や「黒」に決めつける時は逃げていると感じる。

俺が饒舌になれない時、
俺が激しく反発をする時、
それはいつも「白」か「黒」よりも、灰色について考えている時だ。

人が「白」や「黒」という答えを口にする時、
それは容易な事ではない。
だから、人に答えを要求してないけない。
だから、人を決めつけてはいけない。
だから、自分の内面はいつも複雑に散らかしておかなければいけない。

「白」や「黒」という答えは、灰色が満ちた時に見えて来る。

灰色を怠って出した答えは、結論にはなれない。

結論とは、「出す」ものじゃなく「待つ」ものなんだ。


小生、時勢の蘇生 2009/01/30

あけましておめでとう…なんて今更です。

俺が夜の妖精に誘われ、竜宮城の下働きをして無心になっている間に、
世界はコツコツ変わって行ってるなと思いました。
まったく浦島太郎さんの気分で毎日を行き来致しております。
皆様に於かれましては、息災に過ごされておるんでしょうか。

昨日の早朝、ほんの少しの気持ちのゆとりを得て、
マンションの隣の自販機に缶ジュースを買いに出たら、
その自販機はなくなっていました。
俺は、こんな身近な出来事にさへ気付かなかった事に愕然としたんです。
俺のサイクルが、俺の世界と同じリズムを刻み始めるまで、
今暫くの精進と忍耐、
訳が判らず過ぎて行く時間には、より一層身を捨てて尽くさねばならんなと、
改めて思うわけです。

今朝ほどから、静かな雨が俺の頭を濡らします。
やがて止む、その静かな陽の恵みの為に、
身を捨てて尽くそう。
そう思っている今日この頃、
山口晶は健在にしております。

あっ、
明日、下北沢BIG MOUTHで唄います。
突然ですが、
突然、時間ができた人は是非、足を運んで千代。

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